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北の我が家

2013 北海道滞在中の些事片々

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  • 05/10/23:55

風の盆


朝、東御市の道の駅を発つのはいいが、何処へ行こうか、一瞬戸惑った。
いまさら、北も東も南もなくて、
取るべき針路は北北西ならぬ西しかないのだが。
その前に、もう一度南に向かって望月を目指した。
この歳になれば、いつくたばってもおかしくない。
つい先日、中学高校と私と同期だった女の子が亡くなったばかりだ。
ちっぽけな宿場町だが、私の中では大きな存在の望月を、
もう一度、この目に焼き付けておこう、と思った。

東御町の朝は青空が顔を覗かせていた。
数十分の距離の望月は雨。 
雨が降ろうが照ろうが、おふくろが生まれた土地に変わりはない。
しっかりと見てきたから、もう、いつくたばってもいい。

望月から西に向かった。 
とりあえず、カーナビのセットは上高地の手前の道の駅だ。
大したこともない道の通行に500円取られ、
松本を素通りして、島々を過ぎ、徳本峠への分岐を過ぎ、沢渡を過ぎた。
徳本峠は高校時代に一人で超えた峠だが、
かつて、釜トンネルが通じるまで、上高地に入るにはあの峠を越えるしかなかった。
私が越えたのは50年近く前だが、
その当時でも徳本峠を超える人はほとんどいなかった。

沢渡は、上高地へのマイカー規制が敷かれてから、
上高地に入るにはここでマイカーからバスかタクシーに乗り換えるるしかない。
このところの悪天候から望むべくもないが、
もしも下界に霧がなかったら、上高地の散策を狙っていたのだが‥‥。
結局、車に積んだ登山靴は使わず仕舞いだ。
新穂高温泉から西穂へのロープウエイもパス。
カーナビは越中八尾駅にセットし直していた。

北海道滞在を8月いっぱいで切り上げたのは、
9月1・2・3日の、越中八尾の風の盆を観るためだった。
これは、北海道に行く前から決めていた。 予定は9月3日だった。
ところが、天気予報を観ると、どうも危ない。
最終日の3日が雨なら、今年の風の盆はパァになる。
だったら、今日はダメモトデで、今日と明日の二日間に賭けた方が確率は高い。
道中はずっと雨だった。
でも、飛騨から越中に入った途端、曇天に変わった。
この天候なら、風の盆が観れる!

一般車駐車場に車を入れたのが3時。 3時からシャトルバスの運行が始まった。
雨具の用意もしなければならないのがシャクだが、仕方がない。
とにかく、八尾の街に入った。












風の盆では、一般車両は完全に締め出されるとか、規制が厳しい。
だから、パック旅行のツアーに参加するしかないか、と思っていたが、
今日でおおよその様子は分かった。
越中八尾は、「我が家」 と 「北の我が家」 のちょうど中間。
来年からは、北海道への途中に立ち寄れる。

踊りの行進の中に、小規模なグループがあった。
踊り手は二人しかいない。
地元の、八尾高校の郷土芸能部のグループだった。
この子たちが、将来の風の盆を引き継いでいくのだろう。 いいことだ。

5時から7時までは踊り手たちの休憩時間だというから、
八尾の街を後にした、
射水の道の駅で車中泊だ。
駅弁大会ではいつも買って食べている鱒ずしが今晩の夕食だ。
現地で食べるのが好い。
明日は能登半島を一周する。
灯台めぐりの際に、見落とした場所がある。 雨でも、行く。
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信州


昨日で9月に入った。
上越市吉川の道の駅で9月1日の朝を迎えて、
さて、今日一日どうするか。 どうするかたって、決まってる。
信州だ。
信州のどこに行くか。 どこに行くかたって、決まってる。
東信の望月だ。

カーナビでは詳細のルートがわからないから、
出来る限り直線に近いルートを選んだら、これが大間違い。
進むにつれて道は細くなり、急坂になってくる。 霧に巻かれ始めた。
こんな道、二度と通りたくないと思ったが、
あとで地図を見たら、標高1129mもある開田峠だ。
千メートル超の峠を越えようとすれば、そりゃ大変だ。 いゃ~参った。
この後に、菅平越えが待っていた。
北海道では2か月間経験しなかった峠の連続だ。
しかも、道は細く、急坂だ。
十州に境連なる信濃の国は八方が山と峠だ。

小諸を過ぎ、佐久を過ぎ、気が付いたら佐久穂町に入っていた。
両側から山が迫り、谷筋の道になって、進んでいる道も記憶と違う。
一年前に食べた鯉料理を、もう一度食べようと走っていたのだが‥‥。
コンビニで 「るるぶ」 を立ち読みして、通り過ぎたことに気付いた。
目指す店は、中込駅前の山城屋だった。
鯉こく定食が1200円。 鯉の甘煮が単品で800円。
美味い。
これで2000円なら御の字だ。


現存する最古の校舎である旧中込学校を観る。


古い校舎では、松本市の旧開智学校が有名だが、
開智の竣工は明治9年。 中込は明治8年だ。 ともに国の重文。
開智は藩校の流れをくむが、中込は藩校でもなんでもない。
そんなに豊かでもない3つの村が金を出し合って建てたという。
さすが、信濃教育の原点だ。

鯉料理を堪能して、望月の街へ。
中山道25番目の宿場町も、時代に取り残された街になっている。
おふくろが生まれ育った街だ。
鹿曲川の流れを眺め、瓜生坂を登った。
おふくろの話に、何度も出てきた川と峠だ。




道の駅・みまき の温泉に入る。
この2か月間に入った温泉は30か所をくだらないが、
そのほとんどにサウナがあった。 昨日の温泉にも。
サウナ室に入ったら、壁に2枚、バスタオルがかかっている。 忘れ物?
ところが、見ていると、サウナから出る人は誰もが、
そのバスタオルで自分が流して落とした汗を拭きとっている。 
椅子と床の。
こんな光景は初めて見たが、私も真似た。

洗い場では、
自分が使ったイスをきちんと並べ、その上に桶を伏せて離れる。
それは真似なくても、私もいつもしていることだが。
信州人はお行儀がいい。
これも、信濃教育の賜物か。

昨夜は東御市の道の駅・雷電くるみの里 で車中泊した。
朝、道の駅から南方を観たら、山越しに、一つの街が見える。
食堂のおばさんに聞いたら、北御牧だという。
その近くには望月の街があるだろうと写真を撮った。


私は、
生まれた長門市と、住んでいる下関市の次に信州が好きだった。
ところが、この最近、北海道が割り込んできた。
信州は北海道の次になりつつある。
なにも、序列をつけることはないから、信州と北海道を車の両輪としよう。

函館~上越


函館発午前3時。
津軽海峡の天気はすっきりしないが波低し。
6時40分、青森港着。 青森ICに直行。 東北自動車道へ。
青森・岩手県境を中心に土砂降り。

盛岡近くのSAで、盛岡冷麺を食べる。
軽食コーナーでの冷麺はレストランよりも100円安かったが、
その分だけ味が落ちているのか。
そういった形で、レストランとの差別化はしないでほしい。
このままでは、私の中での盛岡冷麺の評価が落ちてしまうので、
次のSAでは、レストランの冷麺を食べた。
短時間のうちに2杯の冷麺を食べる私もどうかしているが、
そんな悪条件化でも、2杯目の冷麺は美味かった。
これでまた、来年北に向かうことがあれば、SAのレストランで冷麺を食べよう、
というように気持ちが持ち直せた。 めでたし、めでたし。

郡山JCTから磐越道。
仙台を過ぎてから雨は降らなかったし、道は乾いていたので快調に走る。
しかし、岩手山、蔵王山、安達太良山、磐梯山は雲に隠れていた。
新潟は素通り。 上越市の柿崎ICで降りた。 土曜半額割引で6900円。

「我が家」 から新潟まで一日で走ったのは3度の経験があるから、
新潟近辺で一泊すれば、
函館までなら2日で行ける自信が確信に変わった。
津軽海峡を深夜に渡る、という条件付きだが。

これまでは、
名立谷浜SAか米山SAで車中泊していたが、そこでは入浴ができない。
柿崎ICで降りたら、至近に、よしかわ杜氏の郷 という道の駅がある。
ここには、隣接して温泉がある。
古い建物で、600円は少し高すぎるが、
受付の3人の女性が愛嬌があって可愛いから、許すしかなかろう。
隣接してセブンもある。 これはとてもいいことだ。
「我が家」 から青森までの中間地点に、温泉とセブンがある道の駅を見つけたことは、
私にとって強力な援護射撃となる。

しかし、食事が済んだ頃、強烈な雨風に襲われたのには参った。
バックドアを半開きに固定する金具を実験中で、
思ったようにドアロックができないからあれこれ検討中だったが、
突然の雨でびしょ濡れになった。 もう、旅先では余計なことはすまい。
小さい低気圧が通過したのだろうが、
あの雨のおかげで台地は一気に冷え、眠りやすくなったのは事実だ。
朝は24℃まで下がっている。
北海道にいた54日間に、冷房を入れた走ったことの3回や4回はあるが、
冷房を入れて走って、車外に出た時にメガネが曇ったのは今夏初めての経験だ。
これが、内地だ。
内地の、嫌いな夏だ。 内地で、夏はまだ残っている。 嗚呼。

北から帰る


函館港には、7月9日の9時に上陸した。
いま函館港で、青森行きのフェリー乗船口にいる。
船は、8月31日午前3時に出る。 54日間、北海道にいたことになる。
奇しくも、
西安から敦煌、中央アジアを経てイスタンブールに至るバス旅が54日間だった。
シルクロードでバスに揺られての54日間は長い旅だったが、
今夏の旅も長い。
「我が家」 を出発してからの走行距離は今現在で11,696km。
この間にレンタカーで4日間、1,500km走っているから、1万3千km。
「我が家」 に着くころはゆうに1万5千kmを超えるから、
南極点から日本までの直線距離とほぼ同じ、か。

家内と過ごした 「北の我が家」 での一か月と、一人になってからの3週間。
すぐにでも総括をすることはできるが、まだ早い。
「我が家」 までの復路の旅と、その途中での寄り道が残っている。

昨日は14時半に函館に着いた。
ところが、お目当ての朝市の 「むらかみ」 は、14時でオーダーストップ。
5時から夕方の営業開始と言うけれど、それには付き合えない。
まず、湯の川温泉で入浴。
次に、午前0時のチェックインまでどう過ごすかを考えた。
最も効率的と考えた結論は、フェリー乗り場近くのGSで、ガソリンを満タンにし、
直近のセブンでビールと夕食を調達。 セブンで睡眠。
食べて飲んでも、寝る時間は6時間あるはずが、実際は4時間余。
寝足りなければ、フェリーでも2時間は眠れるだろう。
「むらかみ」 でのウニ丼はパス。 今夏、2回食べたから、もういい。

今日の朝食は抜いて、昼は盛岡冷麺。
夜は、新潟か信州のどこかで車中泊。 
信州をぶらりとまわって、3日の夜は、越中八尾の 「風の盆」 だ。
5日の阪九フェリーに乗れば、6日の朝には 「我が家」 だ。
体力と気力があれば陸路を走る。 運転は少々飽きたが‥‥。

「北へ帰ろう」 なら歌になるが、
「北から帰る」 は‥‥。

静内との別れ


真狩村の道の駅には9時半までいたけど、
雲に隠れて全貌を表さない羊蹄山は、30分や1時間待っても、
姿を表さないときは表さない。
途中で何度振り返っても、薄情な女性と同じらしくて、駄目なものは駄目だ。

真狩村から洞爺湖の北岸に出て、
そのまま南に走れば、酒のみ友達が眠る洞爺湖町はすぐだが、
盆前の17回忌に間に合うようにお参りを済ませているし、
こちらの勝手な都合で何度も訪れることもなかろう。
洞爺湖町に向かって手を合わせるだけで東岸を南下した。
北海道の子供か内地の子供か知らないが、
いかだに乗って遊んでいた。 これも教育の一環か。


伊達の街でホームセンターに寄り、
ホームセンターの分類では補助金具と総称するらしい金具を買った。
バックドアを半開状態にして、その状態を固定して保ち、
なおかつ全扉にロックがかかる、という優れものだ。
江差の道の駅で、車中泊の同好者が考案した方法を聞いて真似たのだ。
私の愛車も、車中泊専用車としては自信と自慢の作品だが、
世の中には頭のいい人がいるもんだ。 脱帽だ。
この仕組みを、いつか、誰かに伝授する日もあろう。
いいものは、共有すればいい。

室蘭では、白鳥大橋を渡り、対岸でUターンをして、もう一度渡った。
あの橋で通行料をとらないのはとてもいいことだ。
駒ケ岳を過ぎてから苫小牧まで、噴火湾沿いの道は退屈な道だが、
白鳥大橋を往復すれば気分転換にはなる。
あの橋を往復しない旅行者はモッタイナイことをしている。

新冠の 「寶龍」 で味噌ラーメンを注文して、
親爺さんに 「できれば、来年また来たい。 それまで元気で」 と挨拶し、
新ひだか町役場で I 女史に挨拶し、
お向かいさんとお隣さんに挨拶し、
私と同姓の散髪屋はもう閉まっていたので、郷里の友人と同姓の散髪屋で散髪し、
「赤ひげ」 で、静内最後の酒を飲んだ。
来年また新ひだか町の静内に来ることができれば、
今日挨拶した方々に 「また来たよ」 と言える。
少し足を延ばして、網走の 「蒸気船」 の大将にも言える。
家内はこのほかに、温水プールの職員さんだかインストラクターに
「また来ました」 と言うことだろう。 回数券がまだ残っているらしいから。

一か月間滞在させてもらった家も、懐かしい思いで見た。
私と家内が一か月かけて抜いた雑草は、3週間で元の木阿弥だ。
草抜きは義務付けられていたわけではないが、
1か月単位であてがわれる移住体験の家を、
「北の我が家」 と思うか思わないかの違いだろう。
雑草が生い茂っていたという話を家内にはしないことにしよう。

新ひだか町で、ご挨拶するべき方々にはご挨拶したので、、
明日は函館に向かう。
函館朝市の 「むらかみ」 でのウニ丼が、北海道で今夏最後の食事だ。
台風が来ないうちに、津軽海峡を渡ろう。